城があったとされる西方寺
2017年10月31日撮影
◆別名
◆所在
津島市天王通
◆交通
◆歴史
本格的な城館としては大橋三河守定高が正慶元年(1332年)に築いた事が始まりだが、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、大橋肥後入道貞能の隠居地として海部郡門真庄を子孫の代まで安堵する書状を発しており、文治年間に貞能は息子の貞経に本拠地の肥後を譲り渡して津島へと移り住んでいる事から、建久年間(1190~1198年)にはある程度の規模を持った屋敷が構えられていたと思われる。
貞経の息子の貞康は仁治2年(1241年)に三河国額田郡に青木城を築き大橋村を開いたとされ、大橋家は尾張・三河にかけてある程度の勢力を持っていたと思われる。
津島四家七苗字の代表的な地位となった大橋家は永享7年(1435年)大橋定省の代に、室町幕府に敵対していた後醍醐天皇の孫にあたる尹良親王に従い、世良田政義、桃井貞綱、津島四家七名字ら80余騎と共に、尹良親王が隠遁していた地である諏訪から三河足助に向けて進軍するが、阿智郡浪合(現在の長野県下伊那郡阿智村)に差し掛かった所で戦闘となり、尹良親王、世良田政義などが討ち死にを遂げる。
尹良親王の息子の良王君は津島四家七名字に付き添われて奴野城へと入城するが、頼朝の発した安堵状があるため、足利幕府は手出しできず黙認の形を取ったと言われている。
戦国時代になり、大橋重良は織田信秀の娘で信長の姉にあたるくらの方を正室に迎え、織田の連枝衆として信秀・信長父子を支えたが、奴野城は津島四家七苗字の中の一家である平野氏が治めていた。奴野城主として名前が残る平野賢長の孫は、豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳七本槍の一人として勇名を馳せた平野長泰である。
◆現在
西方寺一帯が城跡と言われているが、遺構などは存在しない。