荷之上(にのうえ)城

年月日撮影


◆別名

服部家屋敷

 

◆所在

弥富市荷之上町

 

◆交通

 

◆歴史

荷之上は元は二之江と言う地名で、平治の乱で平家に敗れた源義朝(頼朝、義経の父)が東国へと落ち延びる際に『ここまでくれば安心』と言って船にあった荷物を陸に上げて休息を取った事が由来と言われている。

 

永享7年(1435年)室町幕府6代将軍足利義教の時代、後醍醐天皇のひ孫にあたる良王君は、父である尹良親王と共に世良田政義、桃井貞綱、津島四家七名字ら80余騎を率いて、隠遁の地である諏訪から三河足助に向けて軍を発するが、阿智郡浪合(現在の長野県下伊那郡阿智村)に差し掛かった所で戦闘となり、尹良親王、世良田政義などが討ち死にを遂げるものの、良王君は津島四家七名字に付き添われて、その長である大橋定省の居城である奴野城に入城した。

荷之上城の築城年は不明だが、津島四家七名字の中に服部家の名前が有る事から、上記の永享7年より前には城館があったと推測できる。

 

時代は下り、戦国時代になると津島を本拠としていた織田氏が次第に勢力を伸ばし、信長が尾張統一を目指す中で服部党は臣下となる事を拒み、長島一向一揆と結んで敵対する事になる。

元亀元年(1570年)に信長の弟で古木江城主として一向宗に対峙していた信興が服部党に討ち取られた事を機に、織田信長は服部党を含めた長島一向一揆殲滅を決意し、三度に渡って大軍を送り込んで一向一揆を殲滅した。

 

天正4年(1576年)服部正友が離散した一族を代表して服部家の復興を信長に願い出て許可を受けると、荷之上城跡に城館を構え拠点とし、荒廃した市江島(現在の弥富)を開拓してこの地を復興させる。

 

後の江戸時代には苗字帯刀を許された上、代々庄屋を務める事になっていく。

江戸末期には漢詩・書家として名を馳せた服部擔風を輩出しており、弥富市平島町には服部擔風書斎(藍亭)が残されている。

 

◆現在

天正4年に建てられた服部家住宅は現存しており、国の重要文化財に指定されている。

建物には現在も服部氏の子孫の方がお住まいになっており、内部は非公開である。