2018年1月26日撮影
◆別名
◆所在
蟹江町城
◆交通
◆歴史
鎌倉幕府執権北条高時の息子に時行がいるが、時行の孫である北条時任によって永享年間(1429年~1441年)に築かれたのが始まりとされる。
室町時代に入ると尾張守護の斯波氏が入り、戦国時代に入ると渡辺源十郎とその息子である与三郎が城主となって長島一向一揆と結び、その支配地域を広げていった。
永禄年間に入り清洲城の織田信長が力を持ち始め、信長の配下である滝川一益が蟹江城へ入城し、二の丸・三の丸とそれを囲む三重の堀を巡らせた戦国の城へと変貌していったとされる。
天正10年(1582年)信長の命により蟹江城及び支城である大野城、下市場城、前田城は、信長の次男信雄の家来である佐久間正勝に与えられたが、城代は、愛知郡西部から海部南部一帯を実質支配している前田長定が務めたとされる。
同年に信長が本能寺の変で倒れると、信長の後継を巡る争いから小牧長久手の戦いが起こり、豊臣秀吉に従った池田恒興らは岩崎城の攻防戦を経て長久手で徳川家康に討ち取られてしまう。
その後、清洲城に家康、長島城には織田信雄が入り、徳川・織田連合軍は伊勢方面へと侵攻。蟹江城主である佐久間正勝は主力軍の一人としてこれに従軍しているが、この城主不在の隙を付いて豊臣秀吉は滝川一益を使い、城代の前田長定と接触して蟹江城とその支城である前田城、下市場城へと軍勢を入れる事に成功するも、大野城の山口重政はこれに反抗したため、豊臣軍は攻撃を開始。世に言う蟹江合戦が始まった。
蟹江城が秀吉側の手に渡った事を聞いた家康は『長久手の勝ちが帳消しになる』と言って、軍勢を率いて松葉城へと入り、井伊直政らを送り出して支城を攻略。蟹江城の滝川一益も家康・信雄連合軍の包囲を崩す事ができず、前田長定の死と引換に蟹江城を退去し、城は家康の手によって大部分が破却され、さらには天正の大地震により遺構は完全に潰えたと言われている。
秀吉は小牧長久手の戦いから蟹江合戦までの敗戦により、家康に対しての軍事作戦をあきらめ、信雄と単独講和を図るなど外交戦略で家康を支配下に収める事に成功し、天下統一への道を歩む事になる。
◆現在
城跡碑と井戸が残されている。
また、城の南側の西光寺の山号は城南山となっている事が蟹江城を偲ばせる。