2019年2月2日撮影
◆別名
◆所在
清洲市朝日城屋敷
◆交通
◆歴史
清州城に関しては前期と後期に分かれている。
応永12年(1405年)尾張守護の斯波義重が下津城に守護所を置き、その別郭として清州に城を築いた事が始まりとされ、当時は、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた方形の城郭であった。
応仁元年(1476年)の乱が起こると、織田敏定は先代の守護である斯波義敏と東軍に属し、西軍に属して、岩倉城を拠点とていた守護代の織田敏広と敵対する。
文明8年(1476年)11月に敏定は守護所の下津城に籠もる敏広を攻撃し敗走させた。この際、下津城が炎上したため、清州城は守護所となった。
弘治元年(1555年)織田信長は守護代の織田信友を追い払い清州城へと入場し、永禄3年(1560年)に起こった桶狭間の合戦では明け方の午前4時頃に清州城を発し、午後13時頃には今川軍本陣を視界に捉えて、今川義元を始めとした主力武将を討ち取る事に成功。
永禄6年(1563年)に小牧城へ拠点を移すまで、清州城を主城とした。
信長は小牧城、岐阜城、安土城と拠点を移していくが、五条川の川沿いに位置し、東西南北に街道が通る要所に位置する清州城は、尾張の首府としての機能を保ったまま本能寺の変を迎える事となる。
本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀が討ちとられると、信長の後継者決定と遺領の配分を協議する清州会議が行われ、織田信雄が清州城を領有するが、信雄は長島城を本拠とした。
天正14年(1586年)天正の大地震が発生し、長島城を含め海岸沿いにあった城館の多くは倒壊したため、信雄は本拠を清州城に移し改修を始める(後期の清州城)。
五条川沿いに石垣を築き、天守を建造。周囲を三重の堀に囲まれた一大城下町へと変貌した清州城は『関東の巨鎮』と評された。
慶長15年(1610年)徳川家康の命により名古屋に城を築く事となり、清州城下町の一切合切を名古屋へ移す『清州越し』が行われ、信雄が築いた一大城下町は宿場町へと姿を変える事となった。
◆現在
城跡は公園となり、地域の篤志家の寄付による信長と濃姫の像や城址碑等が立てられている。
平成元年には守護所時代の居館があった地に、犬山城を模した天守が建造された他、五条川の護岸工事の際に出土した石垣も移設して保存され、公園の周囲の道路はかつての内堀跡と言われている。