2015年10月12日撮影
◆別名
小木江城
◆所在
愛西市森川町村仲
◆交通
◆歴史
父信秀の代から津島を支配し、そこから上がって来る利益によって軍隊を養うようになってきた織田軍にとって、交易船が入ってくる喉元ともいえるべき長島を支配し、織田に敵対し続ける長島一向衆は死活問題に繋がる勢力であったと思われる。
津島の南に勢力を持っていた服部党は長島一向衆と協調し、尾張をほぼ統一した信長に対して敵対を続け、党首である服部友貞は、今川氏が京へ向けて進軍を開始するとこれに従い、一党を率いて桶狭間へも出陣している。
今川義元が桶狭間で倒れると本拠地の荷ノ上城へ戻り、後に長島城代にもなるが、永禄8年(1565年)に不在の隙を信長の弟信興と滝川一益に衝かれて敗北、領地内に鯏浦城と古木江城を築かれる事態になった。
一向一揆の抑えとして信興を古木江城主とした信長は、永禄11年(1568年)伊勢の北畠氏の元へ年賀の挨拶へ出向く服部友貞を襲撃して討ち取る事に成功。党首を失った服部党は長島一向衆へと合流する事になった。
元亀元年(1570年)信長が浅井・朝倉連合軍と近江での戦いをしている最中に、長島一向一揆は滝川一益の守る桑名城へ侵攻。服部党の残党とこれに協力する一向宗は、信興がいる古木江城を包囲攻撃し、孤立無援の中で信興は討ち死にを遂げる事となった。
厚い信頼を寄せていた弟の信興を殺された信長は一向宗を深く恨み、これが後の長島大虐殺に繋がったとも言われている。
◆現在
築城当時、古木江城は立田輪中の最南端に位置しており、木曽川河口にある島の一つであったが、現在は埋め立ても進み、田園の只中になっている。
道の駅立田から川を挟んですぐ東にある富岡神社が城跡であるが、遺構などは残されていない。
現在は田畑の中に神社が残るのみである。